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すべてが一人称。読んだ側も、書いた側も

赤い糸 下
少し前に「蛇にピアス」という映画を見たんですが、客席はほぼ若い女の子で埋め尽くされていました。
そこで感じたことなんですが、上映中にも関わらず何度も携帯電話が鳴っていましたし(さすがにマナーモードのバイブ音でしたが)、何度も画面を開閉する時に発するカチッという音や暗闇に光る液晶画面。「蛇にピアス」の感想は省きますが結局は「愛されている自分」、「愛したい自分」を具現化したような内容で、(確かに吉高由里子ちゃんは豪快に脱いでました)それを書いてどうするの?それに感動してどうするの?というのが個人的な感想です。
観ている側も「映画を観ている自分」「映画に感動している自分」「携帯を触りたい自分」というように、主人公と同じな一人称ということです。そこに三人称となる他人は存在せず、「迷惑行為」という概念もないのでしょう。思うに、映画の主人公も観客もすべてが一人称という、劇場そのものが不思議な空間でした。
そして、映画館で感じたことと同じような感情を、この小説を読んで感じました。
本来ならば「蛇にピアス」のレヴューの方が的確なんでしょうが、より粗悪さを具体化している「赤い糸」の方に書かせていただきました。
作者のメイさんも「書いている自分」「作り出した自分」に酔っているだけで、そこには真の読者は存在せず、読んでいる側(決して読者と言いたくない)も「ケータイ小説に感動している自分」「ケータイ小説に共感している自分」「ケータイ小説を絶賛している自分」となっているだけです。
結局は金の匂いを感じた薄汚い人間が両者を利用しただけで、批判を聞く耳さえ持たない両者とっては真の第三者は存在していないということです。
最近の何でもかんでも映画化される事態にも飽き飽きしていますが、このケータイ小説(笑)というものを5年後にもう一度読んでみて、本当に感動するのかを一度でいいから考えてみて下さい。それが、それこそが知識と言うものだと思います。その上で、この映画を観に行ってもおかしくないと思います。

あ、また忘れてた。スイーツ(笑)
引用元:すべてが一人称。読んだ側も、書いた側も
赤い糸 下
一見オフザケのようだが、番組内のお披露目で聴いたとき彼らの本気度は高いと思った。アレンジや演奏内容のそこかしこに一流の仕事ぶりが滲みでていたから。

実際、錚々たる顔ぶれで制作されていた。ドラムの青山純、トロンボーン村田陽一をはじめ、スティング宮本(eb)、鈴木健治(g)、上杉洋史(key)ら、各分野の匠がずらりと揃う。西村浩二、菅坂雅彦両氏(tp)、竹野昌邦(sax)の管セクと弦一徹ストリングスの参加も豪華だ。編曲は、若き才人日比野裕史とベテラン荒木陽太郎という組み合わせ。そして音楽監督に武部聡志。

良いものが出来てくるのは当然かもしれない。
ただ、この曲はそれだけに終わらなかった。時代性のあるメッセージと開き直ったビジュアルとのギャップも含め、いい大人たちが全開で遊んでいる感がばっちり収録されているから、聴いているほうも気持ちいい。

マニピュレーションを手掛けた北岡徹也氏曰く、「こういうレコーディングはこのご時勢、めったにない(中略)こういうレコーディングが増えていくことを切に願います。」(本人ブログより)
私もそう思います。
引用元:

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